未熟児で生まれたけど無事社会人やってます

29年前、1452gで生まれた私。 人並みにいろいろありました。 それでもなんとか生きています。 今なにかに苦しんでいる方の 心の支えになれると嬉しいです。

はしか・水ぼうそう

 

生後52日でようやく退院したわたし。

 

その後1ヶ月ごとに検診を受けていた。

 

首が座る、おすわりをする、

はいはい等は

平均よりやや遅れていたが、

特に大きな問題はなく

すくすくと育っていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

ただ、病気を立て続けに

したことがあったそうだ。

 

1歳6ヶ月のときのはしかと

1歳11ヶ月のときの水ぼうそう

 

はしかは予防接種実施前だった。

 

 

さすがに両親も心配したようだが、

なぜだかわたしの実家には

当時の写真がたくさんある。

 

ぶつぶつの顔で

楽しそうにピースしているわたし。

 

 

 

 

母はきっと

おもしろがっていたのだろう。

 

 

 

 

 

ほとんどの親は

子どもが病気になると

心配するだろう。

ただ、わたしの母は

心配しすぎず

程よい気持ちの距離を持って

子育てをしていたのだろう。

 

 

今思うと

母は偉大だ。

 

退院

 

守護霊である祖母や

両親に名付けられた名前のおかげで

わたしは生後の3日間を無事に過ごし

4日目を迎えることができた。

 

ただ、それでもまだ小さかったので

相変わらず保育器生活は続いた。

 

 

 

ちなみにわたしは予定日前とはいえ

38週で生まれたため

早産ではない。

 

 

 

ではなぜ未熟児だったのか。

 

病的因子はなく、単純に

母が39歳と半年の

妊婦としては高齢だったことと

母の体が小さかった(148cm)こと。

この2点が原因だったようだ。

 

 

 

 

現在は医療が発展し

40代の高齢でも

体が小さくても

安全に子どもを生めることが増えている。

 

しかし当時の医療にとっては

かなりリスクの伴うことだったようだ。

 

しかし、それでも産むと決断してくれた両親には

本当に感謝している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そしてわたしは

一般的に生後5日〜1週間程度で

退院できると言われている中、

 

生後52日

体重2600g

身長46.5cm

で、退院を迎えるのだった。

 

 

名前

 

 

出産前に性別を知り

事前に子どもに命名することが主流の

今とは違い、

当時の29年前は

出産後に性別を知る人が

多かった。

 

両親も例にならって

出産後に性別を知り、

私の名前を考えたそうだ。

 

ちなみに父は田舎の長男のため、

私の兄は「長男の長男」ということで

父方の祖父が名付けたらしい。

 

ということで第二子の私は

両親にとって初めて

名付けをする子どもとなった。

 

父は知人に姓名判断の本を借りて

良い字画になるように、

などさまざまなことに気をつけながら

私の名前を考えていたらしい。

 

 

 

そんな中、

生後の3日間を戦っているわたしを思い、

医師が両親にこう助言したらしい。

 

 

 

「両親の名前から一字ずつ取って

 名前をつけると

 その子は両親に守られ

 元気に育つ」

 

 

 

 

少し大げさに言うと、

生死をさまよっているわたしを

助けるために

そのように名付けをするのも

ひとつの手だ

ということだった。

 

 

 

 

 

 

父、小五郎

母、夏子

 

それによりわたしは

「小夏」

と名付けられた。

 

 

 

 

 

 

以前は昭和じみた名前に

嫌気がさすこともあったが、

両親の思いを考えられるようになった今、

自分の名前を気に入っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ちなみにプライバシーの観点から

わたしの名前「小夏」を含め

両親の名前も全てここでは仮名を使用しています。

 

ただ、わたしの名前をつけられた過程は

実際にあった出来事です。

 

おばあちゃん

 

母方の祖母が亡くなったのは

私が生まれる10日前だった。

 

 

母の実家は長崎の離島で

当時住んでいた東京から

臨月の母が向かうのことは

とてもできず。

葬儀には父と3歳の兄のみ

出席したそうだ。

 

 

母は、自分の親の葬儀に

出られなかったことや

孫の私の顔を祖母に

見せられなかったことが

心残りだったのかもしれない。

 

 

 

 

 

わたしを生んだ日の夜、

母が病室で窓から夜空を見ていると

祖母の声が聞こえたらしい。

 

 

「わたしが守るからね」

 

 

 

 

 

 

 

この出来事から、

母は何かあるたびに

私の守護霊は祖母だと言う。

 

このことに関してはこれからも

少しずつ伝えていきたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それから

生まれてすぐにわたしは

保育器の中で1ヶ月以上過ごすこととなる。

 

このとき両親は医師から

3日間が勝負

と告げられていた。

 

 

生まれた日

 

わたしが生まれるのは

8月下旬。

の予定だった。

 

 

しかし母の陣痛がきたのは

8月13日、

お盆真っ只中の

夕食どきだったそうだ。

 

順調であれば

近所の産婦人科で出産予定だったのだが、

その日はお盆で休診日だったそうで、

母は陣痛の痛みに耐えながら、

車で15分程のところにある

総合病院へと向かった。

 

 

 

母は病院でトイレで力もうとしたが、

おや、様子が違う、

これは排泄でなく子どもだ、

と気がついてくれたようで。笑

 

 

 

 

分娩時間2時間28分

スピード出産の末

夜の10時頃

わたしは生を受けた。

 

 

 

 

 

 

自然分娩。

 

アプガースコア9点。

※出生時の新生児の健康状態を

 10点満点で評価したもの

 

 

 

 

 

 

 

 

ただ、

 

生まれたばかりの私は、

 

1452g

 

未熟児だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

参考資料

 

赤ちゃんの部屋

https://www.babys-room.net/521.html

 

 

はじめに

 

 

ときどき

生きていることが

苦しくなる

 

 

何のために生きているのだろう

 

どうして生まれたのだろう

 

そして

これから先

何を目指して生き続けるのだろう

 

 

 

 

そんなとき、ふと

両親のことを思い出し、

申し訳ない気持ちになる

 

 

両親は私が生まれたとき

喜びとともに

私の幸せを願ったはずだ

 

それなのに

私はその両親の願いを

裏切っている

 

その罪悪感に包まれながら

同じ毎日を繰り返している

 

 

 

 

 

 

 

 

このままじゃだめだ

 

だれかに伝えなくては

 

 

私がどんなふうに生まれ

どんな人生を歩み

それにともなう両親の思いと

どう向き合ってきたのか

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私は低体重で生まれた

 

今、子育てをしている中で

様々な苦難に向き合っている方、

子どもが低体重、未熟児で生まれ

不安を抱いている方、

そんな方々のほんの少し

心の支えになれたら…

 

そう願いながら

ゆっくりと

自分の人生を振り返ってみたいと

思います